【微分】接線の意味

ここまで接線と微分の関わりについて、いろいろな角度から検証してきましたが、最後にそれらをまとめて、この接線という視点からみたときの、微分という数学的手法の意味について考えてみたいと思います。

この節を最初から読む
この節の目次にもどる

接線の意味

例は引き続き、落下運動における速度をイメージします。図で(a)は落下運動を表す元の関数、(b)は時点Pで(a)を微分した「瞬間の変化」を表す接線です。最初に、この運動で点Pにおける「瞬間の速度」を知りたいという問題意識から出発して、微分という方法に行き着き、(b)を作り出したのでした。

ここで、この微分した関数(b)が意味するものがなにか、ということを考えます。

元の運動の関数(a)は、グラフ上で速度を変化させながら、滑らかにカーブを描いて伸びていきます。このようになるのは、ニュートン力学の考え方からいえば、落下する物体に、途切れなく均等に、なにかの「作用」がかかり続けているからです。

それと比べたときの関数(b)とは、点Pのところで、この均等な作用を頭の中で仮に断ち切って、そこから先はただ惰性で動いていったとみなしたときの、現実には存在しない仮想の動きを示した軌跡です。グラフの上では、変化を引っ張って、等加速運動のカーブを作り出していた見えない糸をぶっつりと切って、文字通り糸が切れた凧のように真っ直ぐスッ飛んでいった状態を示しています。この実際には存在しない架空のものを、われわれは「瞬間の速度」と呼んでいるのです。

面白いのは、われわれは(少なくとも数学的な理解の中では)、元の運動を示す(a)をあるがままに受け取ったときには、どうもよく分からないと感じてしまって、実際には存在しない(b)を作り出して元の変化にあてがったときに「ああ分かった」と感じた、ということです。この2つの落差をつないで、橋渡ししたものが微分です。

元の運動(a)は、現実の自然現象そのもので、最初に使った表現でいえば、ウネウネしたものです。それに対して、(b)は、われわれが頭の中で考えた、ウネウネしたところを切り捨てた「不自然」で硬直した動きです。日常の生活の中でわれわれは、不自然に突っ張った、ぎこちない動きを例えるのに、「棒を呑んだよう」という表現をすることがありますが、まさに現実の落下運動に、途中で無理やり「棒を呑ませた」のが(b)になります。

この関連で、はじめのイントロのところで参照した、Wikipediaの微分のグラフは、本記事では、アニメーションになっていて、ニョロニョロした元関数の上を、ちょうど髭剃りのカミソリが顎の表面をなぞっていくように、接線が滑らかに滑っていく様子が表現されています。「ウネウネしたもの」の部分部分に、硬く突っ張った「棒」をあてがって理解しようとする微分の働きを、みごとに可視化したものといえるでしょう。

Wikipedia英語版「微分」の項のアニメーション
【Wikipedia英語版「微分」の項のアニメーション】


さらに加えて興味深いのは、この微分のやり方を素晴らしい進歩だ、発明だと感心しているわれわれ自身は、鏡で自分の体をみれば分かるように、あるいは目を閉じて自分の心の動きをじっとたどってみれば分かるように、はっきりとウネウネしたものの仲間、眷属だということです。にもかかわらず、それを直接抱きとめずに、一回硬直した単純さを経由した方が、現実をよく理解できた、と感じるところが、とても不思議で面白いと思います。こう言えばなんですが、頭と体が、どこかズレているのです。

機械工学も電気工学もすべての事象を微分方程式で書くことができます。(略)その人の人生といっても、静止した人生などない。過去の一瞬一瞬の積み重ねで、今ここにその人がいる。悲しいことがあって落ち込んだ瞬間や、うれしい瞬間が積み重なって、その人の心が今ここにある。(略)心の動きといっても、この営みはまさに工学の力学系の作用と同じなんですよ。これはまさに我々が機械工学で取り扱う「ダイナミックな現象」とまったく同じじゃないか。そう考えたときに「人の心も微分方程式で書けるんじゃないか」と思い当たったんですよ。

人の心を微分方程式で書けないか 高西教授の「情動方程式」モデル
2009年06月08日 ITMedia

他方で、このような思考上の一種の解体作業を経ずに、ニョロニョロした現実を、あるがままにそのまま受け止めようという理解の仕方もあるのではないかと考えます。その代表が文学や音楽、絵画などの芸術的な把握で、その根底にあるのは、たぶん比喩(アナロジー)の組合せという方法です。これは棒のように硬直した論理ではなく、柔らかいものを別の柔らかいものの創造的な選択と組合せによって再現・理解しようとするもので、数学の微分のような厳密性や確実性はありませんが、思いも寄らない創造性や発展性を持ったやり方です。たとえば、われわれがこうして使っている「言葉」は、それ自体はブツブツとぎこちなく途切れたデジタルな記号(のはず)ですが、集団的な経験や歴史からくる夥しい曖昧さや汚れを靄(もや)のように引き連れ、周りにまとっています。その雲状の揺らぎを逆手にとることで、たとえば俳句や漢詩のような最も優れた短詩の表現が、凝縮されたごくわずかな指定だけで自然の風景や人の心情をありありと目の前に描き出すとき、われわれはその最も成功した状態を体験することができるのです。

自分も含めて、数学が苦手な人、特に微分の考え方になかなかなじめない人というのは、単純に頭が悪い(笑)という点を除けば、この、思考をいったんまったく別の相に置き変えるという切換えが苦手な人のことではないかと推察します。自分もニョロニョロなら相手もニョロニョロなんだから、同じニョロニョロ同士、堅苦しいことは抜きにして、腹を割って仲良くしようぜ、という考え方の方に、感性も能力も、はじめから傾いている人、ということです。

物理学や力学という点では、ニュートンの以前の標準の学説は、アリストテレスの自然学になりますが、これもあえて肯定的に捉えるとすれば、重いものが速く落ちるというその主張も含めて、最初の(a)の方(つまり本来は思考のうえでしか完全に切り離すことのできない、空気抵抗などがはじめから全部入った現実の現象そのもの)を、できるだけじかに掬いとろうとしたもの、という評価も可能なのではないかと思います。




タグ:接線 微分
posted by oto-suu 14/02/02 | TrackBack(0) | 微分 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
<< 前のページ | TOP | 次のページ >>

この記事へのトラックバック