ひとつは、例によって、「なんでそれをやっているのかが分からない」ということです。
微分の授業や説明には、前置きなしにいきなり微分の数式上の定義や、機能の説明から入るものが今でも多くあります。すると、聴く方は、「はあそうですか。でも、それがどうしたの?」となって、そこから先はもうチンプンカンプンでまったくついていけなくなります。
理由のふたつめは、数学自体でみても、微分までと、微分から先は、同じ数学と言いながら、実は中身の味つけが大きく変っていることです。
一般に数学嫌いの生徒がつまずく箇所は、数学そのものとしても、大きな革新、飛躍を遂げた箇所が多いです。無理数とか対数、集合論などがそうで、これらは、数学がずば抜けて得意で、頭の良かったはずの当時の最前線の学者たちにとっても、大きな行き詰まりがあって、それを打ち破る新しい斬新なアイディアを受け入れることがそれだけ難しかった箇所です。つまり、これらの項目で現代の学習者がつまずく時、ちょうど生物学の、固体発生は系統発生を繰り返すという説のように、数学の歴史を個人の中で小さく繰り返してなぞっているわけで、その意味では、それらを飲み込むのが難しいのは、(開き直ってしまえば)別におかしなことでも恥ずかしいことでもなくて、当たり前のことともいえます。微分も数学史上最大の発明とうたわれるほどの、大ジャンプがあった箇所ですので、その最も典型的な分野です。
これらの難点を克服するために、ここでは、もともと微分がなぜ生まれたのか、という点にスポットライトをあてながら説明していくことにします。微分は、ニュートンとライプニッツという二人の大学者が、同時期に独立して考案したといわれていますが、そのうちここでは万有引力の法則やニュートン力学で有名なニュートンに特に注目します。ニュートンが微分を考案したのは、自分の物理学の着想を進めて、表現するうえで、それがどうしても必要だったからです。新しい料理を作るのに、それを調理するのに必要な道具そのものも、新しく作ってしまったのです。
微分以前と微分以降を比較すると、微分「前」の数学は、数学が一般にもっているイメージそのままに、ちょうどアイロンをかけたてのワイシャツのような、ぴしっと折り目の定まった、メリハリのきいたものを扱うのを得意にしています。図形でいえば、完璧にまっすぐな直線や、きれいに角張った四角形などをうまく扱うことができ、曲線であっても、スラリと曲がった真円や楕円のような図形の中にある本質を見事にとらえることができます。
また、それは静的で固定した、永遠に不変のものと一緒にいるときにいちばん馴染みと安心感があります。そのため、無限数列の竿(さお)の見えない遠い先まで思いを馳せることができ、2千年前の紀元前にユークリッドが考えたことは、缶詰のように今でもそのまま引き取って、同じように考えることができるわけです。
ところが、物理学者が立ち向かう、われわれの生の現実の世界は、そう一筋縄ではいかないのがふつうです。この世界に現実にあるもののほとんどは、見かけがミミズのようにウネウネしたりニョロニョロしたりしています。また、すべてのものは、時々刻々と姿を変えながら、ひとつところにとどまらず、移ろい変化します。
世の中は 何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる (古今和歌集)
微分は、このようにウネウネと変化する、われわれの生の現実を、数学が冷たい氷の結晶のような数学であるままで、(いわばウワバミが自分の顎を拡げてニワトリやらウサギやらを強引に呑み込むように)自分の側に引きつけて、無理やり消化吸収してしまう技法です。そこに大きな飛躍と発想の転換があり、そこまで数学の数学らしいところになんとか付き合って、やっとその流儀に馴れてきていた学習者にとって、とりわけ難しくて、また、ショックが大きいのです。
このあたりの感覚をつかむために、ここからしばらくは、物理だか数学だか分からないような内容になりますが、いつもあちこち寄り道ばかりしているサイトなので、気にせず進めることにします。また、ニュートンの業績を振り返る、といっても、そのままでは逆に難しくなってしまいますので、当時のニュートンになりかわったつもりの気持ちで、くらいの軽い意味です。では、まずはじめは、ニュートンよりさらに昔に遡って、近代物理学の祖であるガリレオ・ガリレイのところから、当時の問題意識をたどっていきましょう。