合計金利が100%とは、たとえば半年複利であれば年利100%を半分の50%、50%に割って、150%(1+0.5)を2回掛ける、3ヶ月複利なら、4分割して、125%(1+0.25)を4回掛ける、という意味です。元金を100万円とし、同じやり方で1ヶ月複利まで落として計算してみましょう。
この計算のベースには、前回の年利と月利のところでみた「単利表示・複利計算」の考え方があります。つまり、金利を作るときは単利の考え方で単純割りして、その金利を複利で回しますので、寄せ集めた金利の合計は、常に100%ですが、運用額はそこからはみ出していくことになります。
実用上は現実性が薄くなりますが、同じ計算で分割回数をもっともっと細かくしていって、1日複利(÷365)、1時間複利(÷[365×24])、1秒複利(÷[365×24×360])のような極端な状態を考えることも理論上は可能です。
このとき興味深いのは、このようにどこまでも細かく刻んでいった先で運用額がいったいどうなるのか、という点です。上のように、複利の回転回数を増やすことで、複利効果によって運用額は膨らんでいきますが、1回あたりの金利は逆に小さくなっていきますので、増え方は減ってきます。最初から複利でまわすヤミ金融の借金では、「トイチ」のような隠語にあるように、計算単位を短くするほど、借金の増え方が大きくなり、危険度が増すイメージがありますが、この調子でどこまでもどこまでも細かくみじん切りにしていって、木の周りを回り過ぎてバターになってしまった童話の虎のように、トロトロの滑らかになるくらいまでに無限にすり潰していったら、運用額はそれこそ雪だるま式に膨れ上がって、無限に大きくなるのでしょうか?それともどこかに上限があるのでしょうか?言い換えれば、運用額は発散するのでしょうか、それとも収束するのでしょうか。極限値リミットの記法を使って書けば、こうです。
結論としては、この運用額(倍率)は、頭が抑えられていて、ある決まった上限があり、収束します。この上限値は、2.7182818... という、なんだかずいぶん中途半端なところにありますが、この区切りの数値を、対数の考案者の名前をとって、「ネイピア数」(Napier's number/constant) と呼びます。
ネイピア数は、こんな中途ハンパで、また、こんなふうに金利計算の中から出てきた妙な値ですが、実は純粋な数学の中でも、随所で縦横無尽に大活躍する数で、円周率 π と並ぶくらいに重要な定数とされています。
ネイピア数は、詳しく調べると 無理数 であることが知られています(先に円周率について触れましたが、無理性の証明は、この場合もなかなかやっかいです)。
円周率は「 π 」、同じく無理数の黄金比は「 φ 」で表しましたが、ネイピア数も専用の略号があり、 「e」 で表します。この「e」は、この数の性質をはじめて本格的に研究したスイスの大数学者オイラー(Euler)にちなんだものです。また、名称の方で対数のネイピアの名前が冠せられているのは、すぐ後で出てきますが、この数が対数ととりわけ縁が深く、通常対数とセットの形で用いられるためです。このネイピア数「e」とセットで用いられる対数こそが「自然対数」です。
金利と運用の話に戻ると、このネイピア数「e」を使って、複利の計算期間を上記のように無限に細かくし、滑らかにした、仮想的な複利運用を 連続複利 (continuous compounding) といいます。連続複利は、実際の投資運用では存在しない、想像上の存在ですが、無限に目の細かい、滑らかな複利なので、計算期間をどことどこの間でも自由にとって計算でき(たとえば0.1秒の金利というのも出せます)、上記の自然対数を使うことで、対数の機能により複雑な金利計算が簡単にできる、などのメリットがあることから、ファイナンスの理論上の研究や、商品設計をするときに基本となる、これもまた重要な考え方になっています。
それから注目されるのは、この極限の「無限に大きくする」というコンセプトを、一定の差し渡しの中で内向きに逆転させて用いると、それは必然的に無限に小さく分割するという考え方になって、なにか滑らかなものができあがる、というところです。マクロの宇宙に向かってどこまでも開放されて広がっていく「巨大な無限」「開いた無限」でなく、閉じられたミクロの宇宙の中をどこまでも深く彫り込んで耕していく、さながら盆栽みたいな、「小さな無限」「閉じた無限」といえます。無限数列と極限のとても面白く、強力な可能性を秘めた用法です。ネイピア数の上記の定義の場合、この「一定の差し渡し」は、式の「1/n」の中の「1」(=金利100%)の部分にあります。
ネイピア数「e」と用いられる対数、自然対数を、対数のコーナーで続けてやらず、この数列のところで扱うのは、上記のように、それが定義の中に本質的に極限の考え方を含んでおり、そこを通ってからでないと説明できないからです。このネイピア数は、ここから先、長いつき合いで、この数列の節ではほんのさわりだけの紹介になりますが、次回からその深遠で摩訶不思議な世界をちょっとだけのぞいてみましょう。